『北野天満宮』や『大将軍八神社』のほど近く、五色八重の散椿咲く寺あり。
境内に植えられた見事な「五色八重の散り椿」にちなみ
いつしか『椿寺・つばきでら』と呼ばれるようになった『昆陽山 地蔵院』
3月中・下旬くらいからが見ごろ?
タイミングが合えば”桜”と”椿”が同時に咲く様が見られる事も・・・
3月中・下旬くらいからが見ごろ?
タイミングが合えば”桜”と”椿”が同時に咲く様が見られる事も・・・
『椿寺』への最寄りの駅は嵐電「北野白梅町」駅、バス停なら「北野天満宮」”おばちゃりだー”が大好きなお酢やさん『玉姫酢の齋藤造酢』と同じ『妖怪ストリート』にあるお寺。
実は、前を通る度に目にする「立札」で、通称が『椿寺』だと言う事は知ってはいたが・・・💦
ぼーっ❗と生きているもので😅それ以外何も知りませんでした。
実は、前を通る度に目にする「立札」で、通称が『椿寺』だと言う事は知ってはいたが・・・💦
ぼーっ❗と生きているもので😅それ以外何も知りませんでした。
昆陽山 地蔵院「椿寺」 |
では『昆陽山(こんようざん) 地蔵院』通称 『椿寺』へレッツゴー😀
まずは、山門を入る前に「立札」や「石柱」をチェック 👍
🔎立札から「地蔵院(椿寺)」の縁起を学ぶ
『昆陽山(こんようざん) 地蔵院』神亀3年(726)に【行基・ぎょうき】が【聖武天皇】の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した『地蔵院』が始まりといわれる。その後、1671(寛文11)江戸時代、4代将軍【徳川家綱】の頃に、「浄土宗」となり、ご本尊を五劫思惟(ごこうしゆい)の『阿弥陀如来』となりました。
その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、【足利義満】が『金閣寺』建立の余財で再建し、1589(天正17)【豊臣秀吉】の命によって現在地に移された。(立札より引用)
ありがたい気持ちになったところで、山門の「鍬形(くわがた)地蔵尊」とかかれた提灯の下をくぐります😌
まっすぐ進むと「地蔵堂」です。
🔎「地蔵堂」
現在『椿寺』のご本尊さまは「本堂」におまつりされている五劫思惟の『阿弥陀如来』【善導大師】作ですが、「鍬形(くわがた)地蔵」さまとは元のご本尊の開祖【行基・ぎょうき】作と伝わる「地蔵菩薩」の別称で、「地蔵堂」におまつりされています。「安産守護」のお地蔵さまで、
『地蔵菩薩洛陽四十八箇所 十二番』の霊場です。
「地蔵堂」の背後の板扉はもと『北野天満宮』にあった「多宝塔」の遺構だと言われています。
なぜ「鍬形(くわがた)地蔵」と言われているのでしょうか
「昔、このあたりの村が日照りが続きで水不足になった時の事。自分の田んぼにばかり水を引こうとする強欲な男がおり、皆が困っておりました。
そこに一人の僧が現れ、その男の行いを注意しましたが、男は、あろうことか逆切れし僧の顔めがけて”鍬”を振り下ろし頬に怪我を負わせました。
けれども僧は頬から血が流れ出ているにもかかわらず、怒ることも慌てることもなく、その場を立ち去りました。
これには男もさすがに気になり、後をつけましたところ、僧が「地蔵堂」に入っていきましたので、男も後を追い「地蔵堂」の中をのぞきましたが僧の姿はなく、「地蔵菩薩」がまつられておるだけ・・・よく見ると「地蔵菩薩」さまの頬には鍬の形の傷あり、そこから血が流れているではありませんか。
その姿を見た男は、自分に注意をしてくれた僧が「地蔵菩薩」さまであった事を知り、感謝し、驚き、反省し、それ以降心を入れかえ、村人を困らせることはなかったそうです。」
この言い伝えから「鍬形(くわがた)地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
正面は「地蔵堂」。右側が「五色八重散椿」。
2019/02/28撮影 |
本堂前庭に咲いている”椿”が「五色八重散椿」です。
この”椿”は、”白””赤””ピンク”絞り”等に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが一枚ずつ散るのが特徴です。
【加藤清正】が朝鮮出兵の際に持ち帰り【豊臣秀吉】に献上したものを、「北野大茶会」で会所とした縁からご献木いただいたものと伝わっているそうです。
残念なことに樹齢400年と言われた一世は、昭和58年に枯れてしまい、現在は樹齢120年の二世が本堂前庭に、他にも樹齢30年の二世が多数咲いています。
開花時期は3月中旬頃~4月初旬頃までで、境内の”枝垂れ桜”と一緒に咲く様は見事です。
また、「散椿」の咲いている期間には”散椿”のご朱印もいただけます。
🔎「観音堂」『洛陽三十三所観音霊場 第三十番札所』
「観音堂」には木製立像『十一面観音菩薩』【慈覚大師円仁・じかくだいしえんにん】作がおまつりされています。秘仏の為、ご開帳の「正月(元日~三日)」「お盆」、春秋の「お彼岸」以外は、お前立に金色の「十一面観音菩薩」がおまつりされています。また、「観音堂」向って左側には「びんづる様」↓がいらっしゃいます。
自分の身体の悪い部分をさすると良くなるといわれています。
お詣りの際は忘れずに❗
「散椿」の奥に見えるのが「本堂」↓です。
本堂 |
🔎ご本尊はアフロヘア―❗『五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来』
本堂にはご本尊の五劫思惟(ごこうしゆい)『阿弥陀如来』【善導大師】作がまつられています。アフロヘア🌟の阿弥陀如来様ですよ。日本には16体の『五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏』様がおられるそうです。
普段はお詣りする事ができませんが、お正月の3ヶ日は一般公開しています。
江
戸初期に浄土宗の寺院となった際に、『五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来』【善導大師】作を、ご本尊となりました。
『五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来』とは、「法蔵菩薩・ほうぞうぼさつ」が「阿弥陀如来」となられるその直前のお姿と言う事でしょうか。
『五劫思惟阿弥陀如来』(アフロヘア🌟)自体が珍しく、京都で『五劫思惟阿弥陀仏』がいらっしゃるのは、あと『金戒光明寺』の『五劫思惟阿弥陀仏』が有名です。
🔎「天野屋利兵衛・あまのやりへい」「夜半亭巴人・やはんていはじん」の墓
【天野屋利兵衛・あまのやりへい】
【天野屋利兵衛】は、「忠臣蔵」に登場する”大阪商人”です。が、実在の人物ではありますが、実際に「赤穂浪士」の一件に関わっていたかどうかはわからないそうです。
お話としては、
「赤穂浪士」の討ち入りに協力した人物で、【大石内蔵助】の頼みで槍20本を江戸に運び、みつかって拷問にかけられますが、「赤穂浪士」の仇討ちが果たされたとわかるまでは口を割りませんでした。そして、商人であるにもかかわらずあっぱれだとして死罪を免れ、その後茶人であった【天野屋利兵衛】は【松永土斎】という号を名乗りこちらのお寺に隠棲、生涯を終えらた。
と、言う話が伝わっています。
お墓へはどなたでも参拝することができます。
12月14日「赤穂浪士討ち入りの日」には木像や愛用の品、「赤穂浪士」とのかかわりを記した「天野屋利兵衛直之伝」が一般公開されます。
【夜半亭巴人・やはんていはじん】
栃木県那須烏山市の出身で江戸時代の俳人。【宝井其角】、【服部嵐雪】の門人であり【与謝蕪村】の師にあたる人物。
<椿寺『昆陽山(こんようざん) 地蔵院』アクセス方法>
京都府京都市北区大将軍川端町2075-461-1263
9:00~16:00
嵐電 「北野白梅町駅」徒歩約5分
市バス「北野白梅町」 徒歩約5分
市バス「北野天満宮」 徒歩約8分
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