2019年3月7日木曜日

『西山 宝鏡寺』│『百々(どど)御所 宝鏡寺門跡』人形の寺

 人形よ 誰がつくりしか
 誰に愛されしか 知らねども
 愛された事実こそ 汝が成仏の誠なれ

【武者小路実篤】
門を入り右手側にある『人形塚』に刻まれている歌です
こちらの『人形塚』では年に一度「人形供養」が行われています


宝鏡寺:人形塚
人形塚
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2019年 「春の人形展(3月1日~4月3日)」へ行ってまいりました~💗
春と秋の人形展の時に『宝鏡寺』で一般公開が行われます。

宝鏡寺門跡

「春の人形展」ではひな人形が多く展示されていました。
”椿”にはまだ早いかな~と思いながらのお参りでしたが、やっぱりまだちょっぴりしか咲いていませんでした。残念!

この日は天気もよかったので自転車🚲で行ってきました。花粉💧も多かった~
『宝鏡寺』の「自転車🚲駐輪場」は”門”を入りすぐ左手側、ベンチの前あたりになるのですが、看板も無く、他に自転車🚲も止まっておらず、ちょっとどきどきしました。
車でお越しの際の駐車場は『宝鏡寺』西側駐車場になります。ちゃんと看板はありますが2台分のみのようです。

宝鏡寺:門を入ったところ
門を入ったところ
訪れた日は、お参りの方は多くはなく、ゆったり参ることができましたが、『宝鏡寺』自体が大きなお寺ではなく、廊下幅や天井高もございませんので、譲り合ってのお参りが必要だな~と思った次第でございます💦

また、入口近くの部屋では、『宝鏡寺』についてのビデオが流れていますので、御覧になってまわると、ありがたさ倍増間違いなしです。
再現ビデオには、内親王等が遊びに来られ、境内で遊ばれる様子などもあり興味深かったです。お人形についての解説もあり、思い出しながら見る事ができました。

人形の寺『宝鏡寺門跡』ー 百々御所(どどのごしょ)

■「宝鏡寺」基本情報

宝鏡寺の宗派:臨済宗単立/山号:西山(せいざん)
宝鏡寺の御所号:百々御所(どどのごしょ)
        寺のある地名「百々町」「百々辻」から「百々御所」の御所号を賜る。

■『宝鏡寺』の開山とご本尊[聖観世音菩薩]

建立は南北朝時代の応永年間1368~1375年頃と言われています。

『宝鏡寺』の本尊[聖観世音菩薩]は、その昔、三重県伊勢の二見浦で網にかかり発見されたと言う仏像です。発見された際に、手に”宝鏡”持たれており、その”宝鏡”が光輝いていたため朝廷に献上されました。

光厳天皇】[聖観世音菩薩]を御所に祀られたところ、吉祥があらわれた為、当時尼五山第一位の『景愛寺』の住持で【光厳天皇】の皇女【華林宮惠厳禅尼・かりんのみやえごんぜんに】が支院『建福尼寺』に奉納。光厳天皇】よりご本尊の由緒にちなみ『宝鏡寺』の名前を賜り、寺名を『宝鏡寺』に改め開山したことにはじまります。

■人形の寺と言われる『宝鏡寺』

【光厳天皇】の皇女【華林宮惠厳禅尼・かりんのみやえごんぜんに】が開き、【後水尾天皇】の皇女【 仙寺院宮 久厳理昌禅尼・せんじゅいんのみや くごんりしょうぜんに】入寺以降、紫衣を許され代々皇女が住持をつとめた尼門跡寺院

天皇家から、入寺した内親王へ、季節や折にふれて人形や遊具等が贈られた事もあり、【孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの由緒ある貴重な人形を所持することや、昭和34年に建立された人形を供養する為の「人形塚」、そして現在は毎年10月14日この「人形塚」の前で「人形供養祭」が行われる事などから『人形の寺』と言われるようになりました。


■人形だけではない見どころ


貴重な人形の数々を拝見できることはもちろん、天皇家から入寺した内親王へ贈られたものも人形や遊戯具だけではありませんでした。

庭と庭を彩る花々

”花々”
そして”花々”が彩る手入れの行き届いた庭。

春の人形展の終盤には
淡い紅色の八重の”椿”「村娘」は「村娘の原木」。
中心が白い紅色の”椿”「月光」
「肥後椿」の原木、朱紅色の一重の椿「熊谷」

そして「八重桜」

夏の爪紅一重の「宝鏡寺蓮」(見られないですかね・・・)

6月に花をさかせる【光格天皇】から下賜され受け継がれる「伊勢撫子(御所撫子とも)」
襖絵にも描かれています。
※「伊勢撫子」は三重県の天然記念物。(夏の花なので見られませんかね・・・)

秋には”一木百樹”「イロハモミジ」や「鶴亀庭」の紅葉が見事です。
もみじの季節に『宝鏡寺』の前、寺之内通りを通ると、築地塀から溢れ落ちるような紅蓮の紅葉を見る事も出来ますよ。

 襖絵等は華やかさ、かわいらしさが目を惹きます。

本堂には【狩野探幽】「秋草図金箔に鹿達の描かれた【河股幸和】襖絵。また、大きな三日月の書かれたモダンな襖絵、『宝鏡寺』門外不出の撫子が描かれた襖絵、【円山応挙】のつがいの雉の杉戸絵は上品で、裏面には応挙の子犬達が遊んでいました。

皇女【和宮】のご遺品の絵巻物『四季花鳥絵巻(秋図)』【円山應立】なども知られてます。

建物群本堂」「大門」「阿弥陀堂」「玄関」「使者の間」の6棟は京都市指定有形文化財です。

1788年天明8の大火で焼失しましたが、その後再建され現在に至ります。
また、阿弥陀堂」には光格天皇勅作[阿弥陀如来立像]安置されています。


『宝鏡寺』の行事


3月の『雛祭りは、「春の人形展」のオープニングのイベントとして【島原太夫】の舞の奉納や演奏の奉納などが行われます。

10月14日『人形供養』では、「人形塚」の前で『人形供養』後【島原大夫】の舞の奉納や演奏の奉納などが行われます。

また、一年を通して『人形供養』も受け付けています。
人形供養の詳細はこちらから→ http://hokyoji.net/memorial

やはり『人形』だけではありませんね。

■『宝鏡寺』ゆかりの人々

『宝鏡寺』と皇女 【和宮・かずのみや】※家茂死後落飾し【静寛院宮・せいかんいんのみや】

NHK大河ドラマ「篤姫」では、14代将軍【徳川家茂】に降嫁した皇女 【和宮・かずのみや】が幼き日に遊んだ寺として『宝鏡寺』が紹介されています。

仁孝天皇・にんこうてんのう】を父君に、【孝明天皇(明治天皇の父)】の異母妹であり【明治天皇】の姪である皇女 【和宮・かずのみや】は、「公武合体」の礎として、婚約者がありながら、徳川家に降嫁し、明治維新の“江戸城開城”に功績を残された、時代に翻弄された内親王です
また、皇室から武家に降嫁した唯一の内親王でもありました。

皇女 【和宮・かずのみや】は幼いころ、『宝鏡寺』ですごろくや貝合わせなどをして遊ばれたり、鶴亀の庭で遊ばれたといわれ、一時『宝鏡寺』に住まわれていたこともあり、そのご縁で御遺品が下賜されています。

”おばちゃりだー”は、大昔にテレビで見た【大竹しのぶ】の演じた皇女 【和宮・かずのみや】と言うより【大竹しのぶ】が忘れられません。何と言う題名のどのような筋書きのドラマだったのかははっきりと覚えていませんが、【大竹しのぶ】の狂気と才能に恐れおののいたのを今でもはっきり覚えています。

『宝鏡寺』と【日野富子・ひのとみこ】

『銀閣寺』を造った室町幕府8代将軍【足利義政】の正室であり、日本三大悪女(北条政子・日野富子・淀殿)の一人。実家は公卿(殿上人)日野家。父は日野重政。

『宝鏡寺』阿弥陀堂には、【光格天皇】が造られた[阿弥陀如来立像]とともに[日野富子の木像]が安置されています。

【日野富子】と『宝鏡寺』の関係は、『宝鏡寺』がおさめていた隣接した『大慈院』に【日野富子】が出家していた事にあります。
『大慈院』はもとは尼門跡でしたが、江戸時代には『宝鏡寺』がおさめ、明治になり『宝鏡寺』と一緒になり廃寺となったお寺で、その為『大慈院』[日野富子の木像]は『宝鏡寺』に伝わっています。また、『宝鏡寺』第十五世【渓山禅尼・けいざんぜんに】は、【足利義政】と【日野富子】の娘。
※【日野富子】はなぜ”悪女”といわれたのか
  • 応仁の乱」の原因の一つをつくった。
  • 子供が生まれてすぐに死亡した事を夫の乳母が「呪いをかけた」として流罪にした。
  • 側室4人を追放した。
  • 一時実質幕府を操っていた。
  • 京都七口に関所をつくり、「内裏の修復」「諸祭礼の費用」と言う名目で通過税を徴取しながらそのお金を自分の懐に入れていた。
  • 応仁の乱の東西両軍にお金を貸付たり等の金儲けをしていた。
  • 巨万の富を築きながら夫【足利義政】が「銀閣寺」造設の費用工面を行っていた時に一文もださなかった。
  • 一時お酒や色恋におぼれていた。

    等々。

■『宝鏡寺』周辺には

表千家:不審庵」と「裏千家:今日庵」。
『俵屋吉富 小川店』隣接して「茶ろん たわらや」
『北村徳齋帛紗店』孝太郎酢
また、宝鏡寺前『京和傘 日吉屋』があり『宝鏡寺』境内で傘が広げられていることもあります。

■『宝鏡寺』へのアクセス

京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町547
075-451-1550
市バス「堀川寺ノ内」下車すぐ
市営地下鉄烏丸線「今出川駅」「鞍馬口駅」 徒歩約15分
駐車場あり:2台分

人形展の時のみ拝観(無休)
10:00~16:00
大人600円
小人300円


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